2010年3月16日
西南戦争について
明治6年政変で下野した西郷は1874年(明治7年)、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設した。その目的は、西郷と共に下
野した不平士族たちを統率することと、県内の若者を教育することであったが、外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を
欧州へ遊学させる等、積極的に西欧文化を取り入れており、外征を行うための強固な軍隊を創造することを目指していた。や
がてこの私学校はその与党も含め、県令大山綱良の協力のもとで県政の大部分を握る大勢力へと成長していった。
一方、近代化を進める中央政府は1876年(明治9年)3月8日に廃刀令、同年8月5日に金禄公債証書発行条例を発布した。この2
つは帯刀・禄の支給という旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせた。これが契機
となり、同年10月24日に熊本県で「神風連の乱」、27日に福岡県で「秋月の乱」、28日に山口県で前原一誠による「萩の乱」
が起こった。鰻温泉にいた西郷はこれらの乱の報告を聞き、11月、桂久武に対し書簡を出した。この書簡には士族の反乱を愉
快に思う西郷の心情の外に「起つと決した時には天下を驚かす」との意も書かれていた。ただ、書簡中では若殿輩(わかとの
ばら)が逸(はや)らないようにこの鰻温泉を動かないとも記しているので、この「立つと決する」は内乱よりは当時西郷が
最も心配していた対ロシアのための防御・外征を意味していた可能性が高い。その一方で1871年(明治4年)に中央政府に復帰
して下野するまでの2年間、上京当初抱いていた士族を中心とする「強兵」重視路線が、四民平等・廃藩置県を全面に押し出し
た木戸孝允・大隈重信らの「富国」重視路線によって斥けられた事に対する不満や反発が西郷の心中に全く無かったとも考え
られない。とはいえ、西郷の真意は今以て憶測の域内にある。
一方、私学校設立以来、政府は彼らの威を恐れ、早期の対策を行ってこなかったが、私学校党による県政の掌握が進むにつれ
て、私学校に対する曲解も本格化してきた。この曲解とは、私学校を政府への反乱を企てる志士を養成する機関だとする見解
である。そしてついに、1876年(明治9年)内務卿大久保利通は、内閣顧問木戸孝允を中心とする長州派の猛烈な提案に押し切
られ、鹿児島県政改革案を受諾した。この時、大久保は外に私学校、内に長州派という非常に苦しい立場に立たされていた。
この改革案は県令大山綱良の反対と地方の乱の発生により、その大部分が実行不可能となった。しかし、実際に実行された対
鹿児島策もあった。その1つが1876年(明治9年)1月、私学校の内部偵察と離間工作のために警視庁の川路利良大警視が中原尚
雄以下24名の警吏を、帰郷するという名目で鹿児島へと派遣したことである。これに対し、私学校徒達は中原尚雄等の大量帰
郷を不審に思い、その目的を聞き出すべく警戒していた。
赤龍丸と弾薬掠奪事件
1月29日、政府は鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠にあった武器・弾薬を大阪へ移すために、秘密裏に赤龍丸を鹿児島へ派遣して
搬出を行った。 この搬出は当時の日本陸軍が主力装備としていたスナイドル銃の弾薬製造設備の大阪への搬出が主な目的であ
り、山県有朋と大山巌という陸軍内の長閥と薩閥の代表者が協力して行われた事が記録されている。 日本陸軍はスナイドル銃
を主力装備としていたが、その弾薬は薩摩藩が設立した兵器・弾薬工場が前身である鹿児島属廠で製造され、ほぼ独占的に供
給されていた。
後装式(元込め)のスナイドル銃をいち早く導入し、集成館事業の蓄積で近代工業基盤を有していた薩摩藩は、イギリスから設
備を輸入して明治5年の陸軍省創設以前からスナイドル弾薬の国産化に成功していた唯一の地域だった。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
西南戦争はこのような戦争だったのですね。
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